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・・・ウォー、タ・・・。
遠くで何かきこえた気がした。きこえるかきこえないかの、すれすれでそれは耳に入る。
本当にかすかに。空耳だろうか?
しばらくするとまたきこえる。

・・・おおー、・・・い・・・お。
少しずつ大きくなっていて、ぼくは耳をかたむける。
なぜだかその音は、とてもなつかしい感じがする。忘れてはいけなかったもののように思う。

それが、人の声らしいとわかった瞬間、はっきりとこんな声がきこえた。
「おーい、たけちゃん! やっぱりここだと思ったわ!」
視線を動かすと、黒いスニーカーが見えた。
見上げると、目の前にべにちゃんが立っている。

とてもびっくりした。すごく驚いた。
ぼくは思わず、ピョコンとバッタが飛び跳ねるように立ち上がっていた。
「ど、どうしたの、べにちゃん!」
「どうしたじゃない! それはこっちのセリフよ! みんな大騒ぎしているわよ、いったい今までなにをしていたの!?」
「今まで・・・、あ、あれ、もう夜なの?なんで、、」

翌朝ぼくは、べにちゃんが迎えに来る前に、家を出ていった。
こんなこと、ぼくとべにちゃんとの通園・通学人生、始まって以来のことである。
学校へはいかなかった。
学校へいけば、べにちゃんと会わなければならない。

ぼくは、ぼんやりしてあてなく朝の町中をうろうろとさまよった。
誰も通らないような横っちょに入り、取り壊しが終わって誰もいないビルディングの敷地を横断し、誰も入らないしめった林を通り抜けた。終始うつむき、ただただ歩いた。
まるで夢遊病だ。

べにちゃんがいないところだったら、どこでもいい・・・、この世界にはべにちゃんがいる、だからぼくは、この世界の外にいくしかないのだ。
何も考えてなかったのに、気がつくとそこへたどりついていた。世界の外というわけではなかったが、ここは生きている者と亡くなった者との中間点といえる。

羽衣川のほとりにある、天が原セレモニー。
小竹おじさんが昇っていった、おだやかな地。
ここはとても落ち着く。
水田と畑、あしの大草原、羽衣川を見渡して、ぼくは草の上へ座り込んだ。

石が崩れる音がしたように思えた。
ぼくはうつぶせになっていて、ゆっくりと目を開けた。すると目の前に、確かに石がくずれている。
もう少し顔を起こして見ると、そこには子どもたちと鬼がいた。

川辺である。
子ども達は川から石を持ってきてつみ上げる。そして子どもが、これでできたという顔をすると、鬼がやってきて、せっかくつんだ石ころをけとばしてしまう。
そのたび子どもは泣いたが、やがて泣き止むと、また川にいき、石ころを探しにゆく。

どうやらはここは、賽の河原(さいのかわら)であるようだ。だとすれば川は、三途(さんず)の川ということになる。
立ち上がってまわりを見ると、ぼくはギョッとせずにはいられなかった。

あのあとは先生に、家に帰ってからはお父さんとお母さんに、こっぴどく叱られた。学校から家に連絡があったらしい。
でも、そんなのなんでもなかった。

先生にもお父さんにもお母さんにも、
「ごめんなさい、ぼくが悪い。もう二度としません」
これだけをくり返しいい、あとは黙っていた。

ぼくがもっとも気にしているのは、べにちゃんだ。
べにちゃんになんて話そう。べにちゃんは、ぼくのことひどく怒ると思う。・・・それだけならまだいい、このことを知ったら、べにちゃんは、ぼくのことを嫌いになるかもしれない。
そう思うと、とたんに顔が真っ青になる。

手紙を渡してくれと頼まれたのに、取っ組み合いをしてきてしまったのだ。
そしてべにちゃんはふられてしまった・・・。ネクタイははっきりと、べにちゃんには興味がないといったのだから。
いろいろ考えて、考えれば考えるほど、ぼくはべにちゃんに嫌われるに違いないと思った。
夜、ぼくはまくらに顔をうずめて、えんえん泣いた。

学校。いつもより15分前にぼくは教室につく。べにちゃんとはクラスが違うので、ぼくは朝から、大いに悩むことができた。
授業なんてそっちのけ、給食に出た大好きなミートボールも残し、みんなから「調子が悪いの?」「早退する?」という言葉に、「ううん」とか「大丈夫だから」としかいえなかった。

ぼくはずっと頭をかかえて、うつむいていた。顔面蒼白(がんめんそうはく)とは今のぼくの表情のことをいうのだろう。
べにちゃんから渡されたうす桃色の手紙。これをネクタイに渡したら、ぼくとべにちゃんは、どうなってしまうのだろう。
どうしたって、よくなるということはないと思った。

――放課後。
とにかくぼくは、ネクタイを屋上へ呼び出した。
空には重たそうな雲でいっぱいだった。

「ふふん、なんだい? 竹春がぼくに用だなんて、なにごとだろうね?」
「・・・・・・」
「うん? なんなんだい竹春、変な顔して? ぼくはキミらと違っていそがしーんだから、早くしてくれないかなぁ、ふふん」
ぼくはべにちゃんのうす桃色の手紙を持った右手を、ゆっくり持ち上げる。

うす桃色の手紙は、やはりブラックホールのように重たくて、ぼくは本当に一生懸命持ち上げた。
「なんだい、これ? くれるのかい?」
ぼくは黙って顔を上げる。

春はときおり、日中にしか顔を見せないことがある。
朝晩はまだ寒い日があり、暖房が必要なときもあった。
今朝がそれで部屋の中でも、息がほぅっと白くはき出されて、空中で消えてゆく。
ぼくは学校にいく準備を始めていた。
準備を始めるとすぐにべにちゃんが、むかえにきた。いつもより15分も早い。

「たけちゃん!むかえにきたよー!」
ぼくらは幼稚園の頃から、毎日一緒に通園・通学している。
べにちゃんの声は、いつもより大きくはずんでいる。上機嫌のときの声だ。
「はーい! 今行くねー!」

窓から顔を出してべにちゃんにいう。
急いで教科書やふで箱をかばんに入れ、階段を下りる。
「今日は早いんだねー。」
玄関で靴をはきながらいいドアを開けると、べにちゃんが、いつも通りに笑って立っているはずだった。

ある春の日のことだ。
ぼくは、しくしく泣きながら目覚めた。
夜中だった。
おだやかな夜だ。とても静かで、どこかさみしい。
春がそこかしこにいるのが感じてとれた。ちょっと冷んやりする、ちょうどいい温度。春の始めの、夜の温度だ。

部屋の窓は真夜中の群青色(ぐんじょういろ)に染まっている。外の木立がゆれているので、群青色はうすくなったりこくなったりをくり返していた。カーテンは両端に結われている。
あれ? ぼく、泣いているの?

はじめはそう思ったのだ。そしてその理由がわかったとき、ぼくは唇をすぼめ眉を寄せ、もう一度小さく、えーんと泣いた。
べにちゃんの夢を見た。
べにちゃんが悲しみのどん底から、立ち直ったときのこと。
ぼくがべにちゃんを、いとおしくて、守ってあげたくて、特別な存在になったときのこと。べにちゃんがネクタイのことを嬉しそうに話す日には、必ず決まってこの夢を見るのだ。

――ああ、でも、本当におかしな話しなのだ。
おかしなことの上に、またおかしなことがあるのだ。

ほくの大好きなべにちゃんは、こんなネクタイのことが好きなのだ・・・。
「伊集院くんてすてきよね。・・・なんというか大人っぽくて落ち着いていて、貫禄(かんろく)があるわ。そうしたものってやっぱり家柄や育ちの良さが大切なのかも」
大人っぽくて落ち着いていて、貫禄がある? 違うよ、あれはふてぶてしいっていうんだよ!

なんだいべにちゃん、家柄や育ちの良さ? それならクリーニング店を開いている、お父さんとお母さんから産まれたぼくは、生まれながらにして、すてきにはなれないっていうの!?
ぼくんちに家柄なんて大そうなものはない。育ちも時折クリーニング店のカウンターに立つこと以外、普通の子と変わらないと思う。

べにちゃんは、いつもこんな風にぼくにネクタイのことを話す。あこがれと尊敬の話。
ぼくの耳は、1千万本の矢をぶつけられたようにイタい。そのたび、心の中でべにちゃん反発するのだ。

――おかしな話なのだ。
ネクタイはいう。
「今日のぼくのジャケットはねぇ、フランス製で300ユーロもしたものなんだ。ユーロってわかるかな? でもぼくはいまいちだと思うんだよね。ふふん。色がね、もう少しこいブルーでもよかったのかなぁって、そうは思わない?」

花ノ井小学校、6年2組の教室。
ネクタイの周りにはつねに男女、5、6人の友だちが集まって、みんな、うらやましさと尊敬の眼差しで、ネクタイを見ている。

ネクタイというのは彼のあだ名である。
彼は月にニ、三度、ネクタイをして登校するので、みんなこう呼ぶようになった。
ネクタイをしてくるときは、大人みたくスラックスのズボンに、キッチリとしたジャケットをまとっている。
こうした日は、学校の帰りに家族と街にいって買い物をしたり、外でご飯を食べるのだそうだ。

月はグングン昇って、野原を真っ青に照らしました。
野原には風が渡り、風が吹いた野原の辺りは真っ青色をやや透(す)き通らせたようで、いくぶん透明(とうめい)に見えました。

先ほどとはまた別のポプラがいいました。
年寄りのポプラで幹が太く地面にどっしりと根付いています。とても威厳(いげん)のある姿に見えました。

「あんたがいてわしらがいる。それでまあるくおさまっているのだ。あんたはわしらがいるから日々を安心して過ごせるという。わしらもあんたがいるおかげでこうして誇らしく立っていられる。お互い様なのだ。あんたとわしらでやっとまあるくなれたのだ。ひとつのきれいな風景になれたのだ」

イチョウは月をながめながら胸をいっぱいにして黙っていました。
しゃべる必要はありません。
なぜかといえばふたりは今、全く同じ気持ちでいるからです。
他のポプラたちも少し笑ったようでしたが、口を開くものはありませんでした。
月がてっぺんまで登り、世界の全てを湖の底に沈めてしまった頃、イチョウは安らかな寝息(ねいき)を立てていました。

ポプラたちはそれを認(みと)めると、安心して眠りに入っていきました。  (おわり)