ある日のことです。
とおくの方で、ブーン、キィーンという、大きないやな音がきこえてきました。
二本の木はびっくりしてかおを見あわせました。
「なんの音だろう」
右の木はふあんそうに、左の木にききました。
「はじめてきく音だね。きょうは小とりも来ないし、森のようすもなんだかへんだね」
そのうち、そのいやな音がだんだんちかづいてきました。
なんとそれは、木をきるでんきノコギリの音だったのです!
いよいよ、でんきノコギリのはが、右の木のみきにあてられました。
「うわぁ、たすけてぇ。きられるなんていやだよぉ」
右の木は、大きなこえでなきました。
左の木も、そのこえをききながら、こわくてふるえていました。
「ああ、もう、子どもたちのえがおが見られなくなるんだ。小とりたちの、たのしいはなしもきけなくなるんだ。ああ、かみさま、どうかたすけてください。でも、もしきられてしまうなら、どうぞ、べつのものにかたちをかえて、たのしいおもいをさせてください」
そうねがっているうちに、左の木もきりたおされてしまいました。
二本の木は、きられたあと、どうなってしまったのでしょう。
なんと二本の木は、ベンチに生まれかわり、ぐうぜんにも、またおなじこうえんでとなりどうしになったのです。
そのこうえんは、シーソーとすなばがあるだけの、小さなこうえんでした。
よちよちあるきの子どもをつれたおかあさんたちや、かいものがえりのお年よりたちが、入れかわり立ちかわりやってきます。
さいしょのころは、どちらのベンチにもすわっていた人びとでしたが、いつのころからか、りょうほうのベンチがあいていたら、みんな左のベンチにすわるようになったのです。
ベンチになってからは、えだもありませんので、小とりがとまることもありませんし、子どもたちがどんぐりをひろいにくることもありません。
そうなってはじめて、右のベンチはさびしいとおもうようになりました。
ある日、右のベンチはおもいきって、左のベンチにはなしかけてみました。
「ねえ、どうしてみんなきみにすわるんだろう。きみもぼくも、おなじかたちといろをしているとおもうんだけど」
「ん~。どうしてなんだろうね。ぼくにはわからないよ。でもね、ぼくはすわってくれた人がたのしそうだと、とってもうれしくなって、『この人たちのしあわせが、ずっとつづきますように』っておもうんだよ。
ときどき、ひとりぼっちのお年よりがすわることがあるのさ。じっと目をとじてしずかにしていると、お年よりのきもちがつたわってくるんだよ。『だれかとはながしたいなあ。しばらくだれともはなしてないなあ』って。
だから、『だれかお年よりに、はなしかけてくれないかなあ』ってこころでおもうんだけど、そのときにふしぎなことがおこるんだよ」
「どんなことがおきるんだい?」
「よこにすわった人が『きょうはいいおてんきですねえ』ってはなしかけたり、小さな子どもが、よちよちあるいていってわらいかけたり」
このこうえんにくる人たちが、なんだかしあわせそうなのは、このベンチのおかげなのかもしれないなあと、右のベンチはおもいました。
「そうだったんだね。じゃあ、ぼくもきみのように、すわった人のことをおもいながら、ここにいることにするよ」
それでもしばらくは、みんな左のベンチにすわるのでした。