事件が起きたのは、その日の夜のことだ。
「くるみに相談があるんだ」
会社から帰宅してすぐにくるみの部屋をたずねてきたお父さんの顔はしんけんだった。
「え、お父さん、相談ってどうしたの?」
くるみがびっくりしていると、それに続いたのは思ってもみない話だった。
「お父さん、理由があって犬を引き取れたらと思ってる。くるみの意見を聞かせてほしい」
それを聞くと、くるみは昼間と同じように急におこりだした。
「なんで? イヤ! ぜったいにイヤ!」
「どうしても、むずかしいか?」
くるみはもう返事もせずにむっつりとだまりこむ。お父さんはがっかりしたようだった。
「くるみ。実は、知り合いのおじいさんが病気で長くないことがわかったんだ。だから、飼い犬が幸せにくらせる家をさがしてるんだ」
少しでも望みがないかとさがすように、お父さんはそんな風につけくわえた。
「・・・・・・」
「なぁ、くるみ、力になれないか?」
「別に、うちじゃなくてもいいでしょう?」
「そうか。ムリは言えないな」
お父さんはかたを落として、スマートフォンをかた手に部屋の外に出ていく。
つくえでスケッチブックに絵の続きをかきはじめたくるみは、イライラした様子でえんぴつを放り投げた。パタリとドアがとじると、すぐにかけよって聞き耳をたてる。
「浅田さん、あの先日のワンちゃんの件なんですが・・・」
ろうかで電話を始めたお父さんの声が聞こえてくる。なんだか心がチクチクする気がして、くるみは耳をドアに押しつけたまま、胸(むね)のあたりをぎゅっと押さえた。
「はい、家族の都合が悪くて・・・」
もうしわけなさそうな会話を聞くとドキドキした。
(ことわるんだよね。そうだよね・・・。だって)
そのしゅんかんだった。「ワン!」と明るい鳴き声が聞こえた気がして、くるみはハッとして周りを見まわした。くるみの家には、もう犬なんかいない。
気のせいだ。気のせいだけど――。