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スゥはゆっくり深呼吸をすると、湖の涙を、ゴクゴク、ゴクゴクと飲み始めました。
そして、ひび割れて石のように硬くなった幹の皮を、歯を食いしばって引きはがし、力をふりしぼって枝を持ち上げ、精一杯空に向かってのばして、重たい雲を夢中でかき分けました。
すると、陽の光に触れた毒のきりは少しずつ晴れて、実にも赤い色が少しずつ戻りはじめました。
スゥは枝をしなやかに伸ばして女の子を優しく抱き上げました。
そして、実に穴を開け、その果汁を女の子の口に運ぶと、みるみる肌のつやが良くなり、女の子が元気を取り戻しました。
「さあ、早く帰って、この実を食べさせてあげなさい」
スゥは自分のツタでくつを編んで女の子にはかせ、大きくみずみずしい実をひとつ渡しました。
「うん!」
女の子は笑顔でこたえ、渡された実を両手で大切にかかえると、走って戻っていきました。
スゥは倒れていた周りの人たちにも枝で実を運ぶと、ひとり、またひとりと、立ち上がりました。
やがて、街の人々も戻ってきました。
王様もお城の人々も戻ってきました。
みんなに笑顔が戻り、 みんながスゥに感謝を伝えました。
大切なものをもう二度と傷つけないために、スゥは再び空に向かってどんどん大きくなっていきました。

世界樹6そして月日は流れ、世界のどこからでも見られるほどに大きく成長したスゥは、何があっても枯れることなく、いつしか「世界樹」と呼ばれ、たくさんの人からしたわれました。

その年の最後の冬の嵐が通り過ぎた、おだやかなある日のこと。
「心地の良い枝に美味しい実。ずっとここにいたいね」
目をやると、枝の上に並んで羽を休めている、ライラと雄鳥とかわいい子供たちの姿がそこにありました。
まだ少し冷たい風から彼女たちを守ろうと、スゥは気付かれない様にそっと葉をよせました。
一瞬、風にゆれる枝と葉のざわめきの中で、
「ありがとうね、スゥ」
と、大好きなあの声が、聞こえた気がしました。

世界樹5スゥは何日も何日も泣き続け、やがて足元には大きな涙の湖が広がり、お城や街がその底に沈みました。
身体も石のように硬くなり、実から出る毒は紫色のきりとなって辺りを包みました。
空は鉄色の重たい雲におおわれて、陽の光をさえぎりました。
そして、悲しみ以外何もない場所で、ついにスゥは動かなくなりました。

うつむき、ただ時間だけが過ぎていく中、ふと足元から、声が聞こえてきました。
「・・・ください」
目を開けると、そこには、まだ幼いはだしの女の子が、じっとスゥを見上げていました。
きっと遠いところから歩いてやって来たのでしょう。服は汚れ、足は傷だらけでした。
「お母さんが、病気なんです・・・ウチにはお金もなくて・・・。でも、スゥの実を食べれば、すぐに元気になるってみんなに聞いて、ここまで来ました。だから助けてください」
女の子はまっすぐにスゥを見つめ、小さな声をふるわせながら、何度も
「助けてください」
とくりかえしましたが、スゥはずっと黙っていました。
何もこたえてはくれないスゥに、とうとう女の子は泣き出してしまい、
「・・・やっと、助かると思ったのに・・・早くしないと・・・お父さんもいなくて、私たち、2人だけなの・・・お願いします・・・」
そう言いかけ、その場に倒れてしまいました。毒のきりが、女の子を苦しめていました。
周りをよく見渡すと、そこには、何人も人が倒れ、うずくまり、苦しんでいました。
みんなスゥを信じ、彼の実を求めてやって来た人たちです。

・・・ドクン・・・
スゥの中で、何かが動きました。
ドクン
自分をしたってくれた人たちの顔を思い出しました。
ドクン ドクン
足元に倒れたこの女の子が、初めて出会った日のライラと重なりました。
ドクン ドクン ドクン
そして気付きました。
「僕は・・・まだ枯れたくない」

世界樹4その日は収穫祭でした。
作物の豊作を祝い、朝からお城も街もお祭です。
スゥのもとにもたくさんの人々が集まり、陽気な音楽が流れ、夜遅くまでにぎわいました。
そして楽しかったお祭もやがて終わりをむかえ、静まり返った頃。
遠くから、見慣れない美しい鳥が2羽やってきました。そして
「ごらん、美味しそうな実がなっている木があるよ」
と、スゥの枝に止まりました。
「本当ね、とても美味しそうな実だわ」
スゥにはすぐに分かりました。
すんだひとみと、長く美しい黄色い羽。なにより、1日も忘れたことがない、あのさわやかなさえずり。
なんとライラが成長し、つがいとなってやって来たのです。
しかし、彼女はスゥに全く気づきませんでした。ライラが無事だったことは安心しましたが、彼女が遠いところに行ってしまったことに、スゥは深く傷つきました。
「ライラ・・・」
これまでずっとがまんしていた想いは、やり場のない大きな大きな悲しみとなって込み上げ、自分をだました学者や森に返してくれなかった王様だけにとどまらず、周りのすべてに向けて、スゥは一気にはき出しました。

太い根は大蛇のように動き回って地ひびきとともに大地を割り、枝とツタはエモノを捕らえたクモの巣のように伸びてお城をつつみ、青々としていた葉は刃となって触れるものをかみくだき、あの甘かった実は猛毒の実へと変わりました。

「あの学者め!! こんないまわしい呪われた木など、早く燃やして灰にしてしまえ!」
驚いた王様はすぐに兵士たちに命令して火矢を放ちましたが、その言葉を聞いてさらに怒りを増したスゥにはまったく歯が立ちません。逆にお城や街を、炎があっという間に飲み込みました。
われを忘れた彼を、誰も止めることはできず、みんな次々と逃げ出して行きました。
もう人々のさけび声も彼には届きませんでしたが、みさかいなく暴れるスゥの目に、ライラが映りました。彼は少しだけ正気に戻り、まがまがしい枝を伸ばして彼女に触れようとしました。
しかしその時、
「危ない!ライラ!」
と、雄鳥がそれをじゃまをしました。
それを見たスゥの目は再び怒りに染まり、枝で雄鳥をわしづかみと、思い切り地面に叩き付けました。
「なんて恐ろしい樹なのかしら! こんなところにはもういたくない! 早く逃げましょう!!」
ライラが言いました。
スゥはライラを逃すまいとたくさんの枝と葉とツタで囲おうとしましたが、彼女は傷ついた雄鳥に寄りそい、彼方へ飛び去っていきました。
夜が明けると、昨日のお祭が、うそのように、お城も街もガレキの山となっていました。

スゥはお城の庭に植えられました。
しかし、約束とは違って、いつまでたっても森に返してはくれません。
「お願いです。僕を森にかえしてください」
スゥは何度も王様に頼みましたが、王様は彼を決して手放そうとしませんでした。
けれども、スゥはあきらめませんでした。
「ライラが遠くからでも分かるように、僕がもっと大きくならないと」
苗木だったスゥの幹は次第に太くなり、枝も長く伸びました。
そして、豆粒ほどの赤い実も丸々としたリンゴの様に大きくなり、たくさん実りました。
「この実、とってもおいしい!」
「この実を食べたら、おじいちゃんの足が治ったんだよ!」
街のみんなにそう言ってもらえることがとてもうれしくて、スゥはいつも微笑んでいましたが、その中にライラの声はありませんでした。
「もっともっと、大きくならなきゃ」
さびしくても、苦しくても、彼は青々とした葉とたくさんの実を実らせました。
春も、夏も、秋も、冬も、ライラに会える日を夢見て、一生懸命に実らせ続けました。

「スゥ、帰ってこないな・・・」
ライラは、ずっとスゥを待っていました。
のどがかわき、小川へ向かうと、一羽の雄鳥が羽を休めていました。
ライラに気づいた雄鳥は、彼女に話しかけました。
「やぁ、キミも龍髭鳥かい? どこから飛んで来たの?」
「私は飛べないの」
「どうして?」
「飛び方がわからないの。私、小さい頃に仲間とはぐれたから」
「鳥なのに?」
「・・・」
雄鳥は彼女をかわいそうに思い、
「僕らは鳥なんだよ? それもとびきりの龍髭鳥。龍髭鳥が空を飛べないなんて悲しいよ、僕が飛び方を教えてあげるよ」
と、ライラに空の飛び方を教え始めました。
「ほら、まず、こうして羽をあげて上下に振るんだ」
言われるまま、ライラは見様見真似で羽を動かしてみましたが、飛べません。
「できないわ」
「あきらめないで」
「もういいの」
世界樹3雄鳥はあきらめて戻ろうとした彼女を引きとめました。
「最後にもう1回だけ。そう、そこで思いきり地面をけり上げる」
身体がわずかに浮き上がりました。
「私、飛べてるの?」
「そうとも、飛べてるよ!」
ライラは空高く、ぐんぐんと上がっていきました。
「わぁ、気持ちいいね」
初めて見たその景色は、自分が鳥であることを彼女に思い出させました。
「そうだろ。世界はもっと広いよ。ついておいで」
そして、ライラと雄鳥は飛び去って行きました。

ある朝、いつもの様にライラが水をくみに出ている時のことです。
ひとりの男が通りかかり、スゥのそばで倒れてしまいました。
着ているものもすり切れてボロボロで、長いあいだ飲まず食わずの様子で、とても弱っていました。
世界樹2話かわいそうに思ったスゥは、実を1粒だけ飛ばしました。
男はそれを見つけるとふるえる手を伸ばして指でつまみ、なんとか口の中に入れました。
すると、今にも死んでしまいそうだったはずの男は、たちまち元気になりました。
(なんて不思議な実なのだ…これは、きっと金になるぞ・・・)

男はスゥの前にひざまずくと、カバンから「植物語」と書かれた辞書を取り出し、ページをめくりながらスゥに話しかけました。
「アリガトウ ゴザイマス。アナタノ オカゲデ イノチビロイ シマシタ」
その男は、魔術を研究したことで王様に国から追放された学者で、植物と話すことができました。
「オレイニ、ゼヒトモアナタヲ ビョウキデ クルシンデイル オウサマニ ショウカイ サセテ ホシイノデス。ドウカ イッショニ キテ クダサイマセンカ?」
「ううん。僕はどこにも行かない」
ライラとはなれたくないスゥはその誘いを断りましたが、
「ダイジョウブ デス。カナラズ スグニ モドッテ コレルヨウニ、ワタシカラ オウサマニ ハナシマス 」
と、学者は何度も必死に頭を下げて、あきらめませんでした。
「本当にすぐに戻れるの?」
「ハイ、モチロンデス」
「・・・分かったよ」
「ドウモ アリガトウゴザイマス」

スゥを誘い出すことに成功した学者は、苗木ほどのスゥをていねいに地面から引き抜いて布で包んで抱えると、すぐにその場を去りました。
少し経ってライラが戻ってくると、もうそこにスゥの姿がありませんでした。
「スゥ、どこに行っちゃったの?」
彼女は、また独りになってしまいました。

街に着くと、学者はさっそくお城に向かい、王様に面会を申し出ました。
「何をしに帰って来た」
イスにもたれた王様が低い声でたずねました。
とても顔色が悪く、国中から集めた何人もの医者に囲まれていました。
「はい、王様。これは、どんな病気やけがも治る不思議な実のなる植物でございます」
学者は布を広げてスゥを差し出しました。
「お前の言葉など、誰が信じるものか。私の病気がよけい悪くなる。早く出ていけ!」
王様は兵士に学者をつまみ出すよう、命じました。
「お待ちください。これは本当でございます。王様のために戻ってきた私を、どうか信じてください!」
病気を治したい王様は実を1粒、口に入れて飲み込みました。
すると、学者の言葉の通り、苦しかった身体が、たちまち楽になりました。
何をしても治せなかった病気が治ったことに、周りの医者もおどろきました。
「ほうびをつかわす。何かほしいものはあるか?」
お金がほしかった学者はたくさんの金貨と引き換えにスゥを王様に渡すと、すぐにどこかへ行ってしまいました。

スゥは、森の奥のこかげで目覚めたばかりの木の芽です。
その日、スゥが昼寝をしていると、
「ねぇ、わたし、みんなとはぐれちゃったの。他のみんな、一体どこにいっちゃったんだろう。見かけなかった?」
と、話しかけられました。
世界樹1話「うん、知らないよ」
気持ちよく寝ていたスゥは、まぶたを閉じたまま答えました。
「そう・・・。困ったなぁ。どうしたらいいのかしら・・・」
今にも泣き出しそうなその声が気になり、目をこすりながらゆっくり開けて見上げると、まるで龍のひげのようにに長い尾と、黄金色の羽、そして、吸い込まれそうなほどにすんだ瞳をした小鳥が一羽、自分を見つめていました。
スゥは息を飲み、思わず口を開きました。
「・・・きっと、みんな戻ってくるよ。だから、それまでここでいっしょに待ってようよ」
と。
スゥの返事に、小鳥は少しだけ安心した様子でした。
「じゃあ・・・しばらくここにいさせてね」
「僕は スゥ・ヤヌール・ド・エドエンシルス。言いにくいから、スゥでいいよ」
「うん。ありがとう、スゥ。わたしは龍髭鳥(りゅうひげどり)のライラ。よろしくね」

それからしばらくの間、ライラは仲間を待っていましたが、いつまでたっても戻ってはきません。
でも、隣にスゥがいるので、もう心細くはありませんでした。
空の飛び方を知らないライラは、小川まで歩き、くちばしで水を運んでスゥに与えてくれました。
ある時、スゥは小さな赤い実をひとつ実らせました。彼は水を運んでくれるお礼にライラにそれをあげると、
「スゥの実、とっても甘くて美味しい」
と、とても喜んでくれました。
初めのうち、なかなかすぐには実りませんでしたが、小指の先程の小さな赤い実がひとつできるたびにライラに与え、それをほおばるライラは、いつもうれしそうにさえずりました。
スゥはライラの歌をきくと、とても幸せな気持ちになり、この時間がずっと続いてほしいと思っていました。
気がつくと、スゥはライラよりも少しだけ大きくなりました。

「いえね、こいつは、いそうろうしていた家でボビーって呼ばれていたんですよ」
ボクはまだふるえていた。頭が混乱していた。
だって無理やり袋から引っぱり出されたボクは、やさしい腕の中にだかれていたからだ。
「オリンピオ、もう怖がることはないのよ。あたしたちよ」
奥さんらしい人がボクをだきあげてくれた。女の人の顔を見たとき、いくらか恐怖がしりぞいた。
こんなやさしそうなきれいな人がボクを殺すなんて考えられないもの。
「オリンピオったら、あたしのことおぼえてないの? やっぱりそうだったのね」
女の人は少し悲しそうに言って、ボクに頬ずりしてくれた。
「行方不明の猫の広告をバールで見つけたとき、すぐにボビー、いや、オリンピオのことを考えたんですよ。仕事先の家で毎日見ていたのでね。あの猫は足の先がちょっと白かったなって。でも、どうして家出なんかしてしまったんでしょうかね、お宅の猫ちゃん」
「哀れなオリンピオは、サッカーボールで頭を強く叩かれて、記憶そうしつになってしまったらしいんだよ」
ご主人らしい人が言った。
記憶をなくした7「オリンピオが庭のベンチで昼寝してたときにね。川の向う側の家の庭から勢いよくボールが飛んできて、オリンピオの頭の上にまともに落っこちてきたんだ。可愛そうに、死んでしまったと思ったねェ。すぐに獣医に来てもらったら、大したことではない、気絶しているから、目が覚めたら検査をしょうと言ってくれたのだが」
「意識を取りもどさずこんこんと寝ていて目が覚めないのよ。だからあたしたちは泉のそばのとても涼しいところに寝かせていたんだけど・・・オリンピオがとっても好きな場所なの。そして 、ちょっと目をはなしたすきにオリンピオがいなくなってしまったの。さあ、大変、もう大騒ぎになったの。でも、こうして無事に戻ってきてくれて・・・」
「めでたしめでたし、わたしらもうれしいですよ、お役に立てて。さあ、それではおいとましようか」
もと船乗りが言った。
「はい、これが約束どおりの」
「こんな大金いいんですかい? ありがとうございます」
二人の男は満足してげんかんを出て行った。

上の方から幼い子どもの声がした。
「マンマ、オリンピオがかえって来たの? どこにいるの?」
「そうよ、坊や、やっとオリンピオがかえって来たのよ」
あわい水色のパジャマの子どもは目をこすりながら、手すりにつかまって階段をおりてくる。
やがて子どもは小さな腕で力一いっぱいボクをだきよせてくれた。
「ボクだよ、ミルトだよ。きっと帰ってくると思っていたんだ」
夢の中で見たあの小さな天使だった。やっとボクたちは巡り会えたんだ・・・。
(おわり)

あっという間にボクは車に乗せられた。ボクが暑いようーって鳴いていると、運転しているらしい男がどなった。
「うるっせえなあ。ちょっと静かにしてくれないかよ、ボビー」
「こいつは暑いんだよ。ひもをといて息ができるようにしてやろう」
「そんなことしたら、ふくろから出てきてあばれまわるぞ」
「いや、心配無用だ。ふくろをつりさげておけば大丈夫さ、ほら、こうしてな」
記憶をなくした6車はあの大理石をいっぱい運んできた小型トラックのようだ。
らんぼうな音を立てて夜の道を走り続ける。
ボクは鳴くのを止めた。泣いたってしかたがないよって自分に言いきかせた。ボクはまた未知の世界に連れていかれようとしているのだ。

夢の中の天使がボクにささやく・・・
「さあ、勇気を出すんだよ。ボクがついてるんだもの。何にも怖がることはないんだよ」
そうとも、この男たちがまさかボクを殺すわけでもあるまい。
「かっさらってきたけど、お前と二人だけで山分けするには、こうする意外なかったってわけだよ。ごめんな、ニコレッタ!」
そして二人は声をあわせて笑った。

きっとボクは売られていくんだ。もしかしたら食べられてしまうのかも。体がふるえ、心臓がどきどき音を立てていた。
やがて車は止まった。
「おい、着いたようだぜ。ベルをおして我々の到着を知らせるんだ」
「よしきた!」
一人は車からとびおりて、ベルをおしているようだった。
「夜分失礼、お約束のもの、おとどけにまいりましたよ!」

ぎーっと門のひらく音がして、やがて車が中に進んで行く気配がした。そして人の声が遠くから聞こえて来た。
こっちに向かって、急いで歩いてくる気配だ。
「ほら、この猫ちゃんですよ。さあ、ボビー、ふくろから出ておいで」
もと船乗りはうって変わったようにやさしい口調で言った。
「ボビーですって?」

ニコレッタさんの家では2人の男が、テラスのゆかの修理をしていた。
古いタイルの色がはげたり、欠けたりしているので、まっ白な大理石に変えることになったのだ。
ボクが隅っこに座って彼らを見ていたら、肩に入れ墨をした職人が言った。
「ミーチョ! そんなにオレたちの仕事が珍しいのかい? それともオレの入れ墨に見とれているのかい? オレはな、昔は船のりだったんだよ。ああ、あの頃はよかったなあ。夢と冒険があったよ」
そして若いあいぼうに言った。
「このネコは迷い猫なんだってさ。野良猫みたいにしょボクれてないし、太って、つやつやしてるじゃあないか。食い物がいいんだよ、きっと」
「お育ちもいいのよ、きっと。そう見えない?」
せんたく物をほしながら、ニコレッタさんが言った。
「わたしが子どものころ飼っていたネコのボビーにとってもにているの。だからボビーって名前をつけたの」
「こんなところにまよいこんで来たのは、いったいどういううわけでしょうかね」
「さあねえ、もしかしたら自由を愛するネコなのかもね。ほうろうするのがすきな猫ちゃん・・・」
「片足の爪のところがちょっぴり白いのがイキだな。幸運のしるしかな?」
「ちょっと珍しいわね。あたしも初めてよ」
「夜はベッドの足もとで寝るんですかい?」
「夏がすぎるまでテラスに小さなカゴをおいて、そこに寝かせているんだけど。主人が動物を家の中に入れたがらないのよ。最初のころは家の中に入りたがったみたいけど、すぐになれたの。とってもきき分けがいいの、ボビーって」

カード1星がいっぱいの夜だ。
植え込みの中にホタルがふーっと飛んでいる。
この近くには小さな沼があるので、ここまでまよい込んで来るんだとニコレッタさんが言っていたけど。
翌日テラスの修理もやっと終った。
サロンでは大勢のお客さんたちが楽しそうに食事中だ。
今日はニコレッタさんの誕生日なのである。
星がいっぱい間近くでかがやいている。
こんなにすばらしいひと時には、誰でも幸せな気持ちになるものだ。
でもふっと考えるんだ。ボクにだって家族がいたのではないだろうか。どうしてボクはひとりぼっちで、こんなところまで来たんだろうか、なんて・・・

いきなり大きな手がボクをしっかりつかみ、あっというまに袋の中に詰め込まれた。
「早くするんだ! 泣き出すと手におえんからな。客がテラスに出てくる前にさっさとずらかろうぜ」

ある午後、ルチオが花だんに水をまいていたときだ。
ボクは彼のすぐ近くで、それをながめていた。
ボクの足もとに水がかかったとき、とっても気持ちがいいので、さいそくするように「ミャン!」と小さくないた。
ルチオはおもしろがって、また、ちらっとかけてくれたので、また「ミャン、ミャン!」とないてみせた。
リンリンが植木の間から ながめていたけど、恐怖のために顔は引きつり、うめき声を出さんばかりだった。
「リンリン、お前もシャワーがしたいのかい?」
おどけ者のルチオは手にしていたホースをいきなり高く持ち上げ、リンリンの方に向けたので、水がいきおい良く飛んでリンリンにかかったのだ。
ぬれねずみになったリンリンはするどいいさけびを上げ、家の中にすがたを消してしまった。
ルチオは何とひどいことをしたのだろう。
リンリンはすごい「水きょうふ症」なのだ。その夜、ルチオが戸じまりのため庭を歩いているときに、リンリンはいきなり彼に飛びかかり、顔を強く引っかいたのだった。そしていねむりをしていたボクをするどい爪をたててひっかいた。
そしてとても価値のあるペルシャじゅうたんにめちゃくちゃに爪をたて、ぼろぼろにしてしまったりした。

ボクは決心して、まだ皆が寝ている朝はやく、そっとその家を後にしたのだった。
やさしい老姉妹がきっと悲しがるに違いないと思うと辛かったけど、他に方法がなかった。
ボクがいなくなれば、きっとリンリンはいくらかおだやかになるにちがいない。
音楽のような水のせせらぎをききながら川にそって歩きつづけていると、小さな森を遠くに見たので、そっちの方に歩いていった。
記憶をなくした4ベンチに腰かけて2人の女の人が編み物をしながら、楽しそうに話していた。
ボクが近くでお座りしてながめていたら、太った方の奥さんが、
「ニコレッタ、この猫、あなたの方ばかり見てるわ。きっと気に入っちゃったのね」
と笑った。
「あらっ、この猫ちゃん、子どものころ飼っていたボビィにそっくりだわ」
そしてボクをだきあげてくれた。
とっても良さそうな人で、ボクはすぐに気に入ってしまったから、彼女らが家に向かって歩き出したとき、後ろからついて行った。