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ぼくはベッドのはしっこのところに丸くなってよこたわった。
〈今夜ひとばんだけここに寝かせてくれよね〉
たった1週間前までそうしていたのに、まるでそれが1年前のことのようだ。ステッラがぼくを見つけたらどうするだろうか。息の根がとまるまでぶつかもしれない。それとも雪の中に放り出すかもしれない。もうどっちだってかまわない。このまま死んでしまえば本望というところさ。とにかくねむい。たたき起こすなら、最後のお願いだ、8時間あとにしてくれよね・・・。

マーポ9あれ? ぼくは、またまたウエディングドレスの前にいるんだ。ハーッとキバをむきだして、ぼくの一番得意のおっかない顔をしてみせる。だのに白いドレスの女はにっこり笑っているのだ。意外! 顔がまともにくっついている。きゃーっ、お化けっ! 女はさっとすくうようにぼくを抱きあげる。
「まあ、マーポったら、どうしたのよ? あたしよ」
ステッラなのだ、助けてぇ・・・。ぼくは彼女のうでの中から飛びだすと、どんどん走り出した。明るいみどりの野原を。ステッラは白いドレスを蝶のようになびかせながら、おっかけて来る。もう走れないよ。ぼくが雑草の中にひっくりかえったとき、ふわふわした白いものが体をおおった・・・。

窓から冬の太陽がいっぱいにさし込んでいた。
「あ、眼をさましたみたいだ」
「あら、本当だわ。ときどき、変な声だしてたけど、夢を見てたのかもね」
「よっぽど疲れていたんだね。もう昼近くだよ。」
男と女の顔が心配そうにぼくを覗きこんでいた。
「マーポ。よく帰ってきたわねぇ。とっても心配してたのよ」
二人の顔が間近にあり、笑っているのだ。ステッラの目になみだが光っている。夢を見てるのだろうか。それとも天国にいるのだろうか。
ステッラはぼくを抱きあげた。
「マーポったら、こんなにやせてしまって・・・食うや食わずだったのね。ダヴィデから電話があって、マーポが出て行ってしまったなんて言うんだもの。あたし心配で心配でごはんものどに通らなかったのよ。でも、マーポはきっと帰ってくるって思ってた。とっても頭がいいから35キロの道だって絶対大丈夫だって。あたし、毎日教会に行ってお祈りしてきたけど、神様が聞いてくださったのね。あらまあ、耳のところが血が出てるけど、またけんかしたの?」
「やっぱりマーポにはこの家が一番いいんだよな、そうだろう? これで楽しいクリスマスが迎えられるね。マーポももう子供じゃあないんだから、あんまりおいたをするんじゃないぞ」

ぼくも少しはいたずらがへって、ひがみ根性も影をひそめてきたみたいだし、ステッラもあまりヒステリーではなくなった。つまり,お互いに年とともにいくらか成長したってわけ。

「こいつ、またサロンに入り込んでいるぞ」
「かまわないわよ,布の肌ざわりがとってもすきみたい。あんなに気持ちよさそうにねむってるわ」
山とつまれた布の上に身をうずめてうたたねするって、とっても気持ちがいいんだ。ざらざらした触感が最高だ。ジーンズって、夏は涼しく冬は暖かいってきいてたけど、ほんとうだと思うよ。
ステッラは『椿姫』をききながら、たまにはいっしょに歌ったりしながら、ミシンでズボンにファスナーをぬいつけることによねんがない。

さらば過ぎし日よ・・・
悲しい歌なのに、ちっとも悲しげでなく口ずさんでいる。
「おい、『ブルースカイ・ジーンズ』のロッシから電話だ。どうする?」
「またぁ? るすだと言って。あの男,なまじっか電話にでると、1時間もまくしたてるんだから。あの口にファスナーをぬいつけて、しゅーっとしめてやりたいくらいよ」これでお分かりだと思う。ステッラは神経をすりへらされるウエディング・ドレスの内職をやめて、ジーンズにファスナーをつけるという新しい内職にかえたのだ。こんなことになったのも、ちょっぴりぼくの責任でもあるんだけれど。
もうけはどうだって? さあ,アパートを買うまでにはまだまだ時間がかかりそうだけどね。

ダヴィデの家を飛びだしてたぶん3日はたっている。ずいぶん歩いたと思う。そのあいだ車の下や、町工場のボイラーの近くのかべに身をよせて寒い夜をすごした。小さなネズミも2匹とった。
小さな広場にたどりついたとき、教会の十字架が小さなランプにふちどられてかがやいているのを見た。ああ、何てきれいなんだ。向かいの赤レンガの家の窓はこんもりと電灯がともっていて、とっても暖かそうだ。クリスマスツリーの赤や黄や青い豆ランプがてんめつするのがかすかに見える。もう、クリスマスはすぐそこらしい。
ぼくの記憶からいくと、今日はクリスマスイヴなのかも知れない。でも、はっきりしたことは分からない。何しろ空腹と寒さで神経がぼけっとして、のうみそがうまく回転しないのだもの。
マーポ7 ぼくがぼんやりと家の明かりを見あげていたときだ。窓べに1匹の三毛があらわれた。赤いくびわをした小さなネコは、お行儀良く座って窓の外をながめていたが、やがてぼくに気がついたようだった。大きく見開かれたあどけないひとみはふしぎそうにじっとこっちを見つめていた。
「きみはしあわせだな。まるで女王さまみたいだ。きみのご主人はきっとやさしい人だろうし、きみはぼくのようにひねくれ者ではなく、お気に入りのネコちゃんなんだろうね。クリスマスにはなにを食べるんだい? トリのペットをこんがりやいたもの? それとも赤肉の切り身にクルミのこなをかけたもの?」

きのうの夜から雪がふりだした。昨日はどこで寝たんだったっけ。そうだ、民家のうらにわのうさぎ小屋のゆかに体をくっつけてねたんだ。その近くにほし草が山もりになっていたから、その中にもぐってしまうと、いくらか寒さしのぎにはなった。金アミのむこうで大きなうさぎが1匹うずくまっていたけど、ぼくのけはいを感じてか、むっくりと起き上がった。ぼくの3倍くらいもありそうなずうたいのヤツは、ぼくを見るとそんな大敵ではないと思ったのだろうか、またうずくまって寝てしまった。

今日もずいぶん歩いた。町に近づいてきた気配だ。もうとっぷり日が暮れて一面銀世界である。いつのまにか雪はやんで、空にはたくさんの星がかがやいている。
小さな民家がたちならび、1本の木を見つけたとき、おや、と思った。まぎれもなく、あの見なれたサクランボの木にちがいなかった。たしかにそうなのだ・・・ということは、ぼくはいつのまにか家にもどって来たのにちがいない。雪の上のてんてんとした自分の足あとをふり返って思った。4日もかかってぼくは帰ってきたのだと。

すき間から倉庫にしのびこんだ。そして小さな穴をくぐって、こっそりと台所へ・・・あれほどきゅうくつなせまい穴だったのに、何てことだ、やせほそったぼくの体はやすやすと通りすぎることができるなんて。きっとこの4日間で1キロはやせてしまったにちがいない。かすかにきこえてくるあのジクザクジーという音は・・・あれはまぎれもなくミシンの音だ。サロンのドアはきっちりとしまっているけど、ステッラが仕事をしているのはまちがいない。クリスマスイヴだというのにご苦労なことだけど、これも、もとはといえば、ぼくの責任なのだ。

だんなのロメオはどこだろう。寝室のドアは少しばかりあけ放しになっている。わずかな寝いきがもれてきた。ぼくはしのび込むと、ロメオの寝顔に鼻をちかづけた。ロメオをながめていると、彼だけがぼくの味方のような気がする。でも、わからないさ、人間はきまぐれな動物なんだから。それに尻にしかれた男は、どうもシンがなさそうであてにならないもの。

ダヴィデはぼくをけとばそうとしたが、こっちが得意のジャンプで奴にとびかかってやったのだ。びんしょうに先に出るが勝ちというのはネコの世界のてっそくなんだ。
思いっきりダヴィデの手をひっかいたら、手応えはたしかにあった。ふき出した血でさけびをあげたダヴィデは、部屋のなかにかけこんだぼくを、昨夜のステッラのように追い回した。ぼくがハーッとキバをむき出すごとに、彼は色をうしなった。

「出ていけッ!」とさけぶや、ダヴィデはいきなりアパートのドアをあけたのである。冷たい空気が下から吹きこんできた。ぼくはドアを走り出ると、もうれつないきおいで階段をかけおりていった。はてしなくつづく階段がやっと終って庭にでるガラスドアを見たとき・・・幸いにして若い男女が中へ入ろうとしていたので、外へ飛びだすことができたのだった。

こおりつくような田舎道をぼくはとぼとぼと歩いていた。ほりかえされてはだかの土がむき出しになった畑のなかを一本の道がつづく。はてしない不毛の地。ぼくは知ってるんだ。春になったら農家の人たちはトウモロコシの種をまき、やがてそれは信じられないほどの早さでのびていき、ネコたちのかくれんぼうの場所となるということを。なつかしいなあ、あの季節が。

マーポ7小さな石の橋のむこうに古びた家が並んでいる。橋の下から出てきた灰色のネコと目と目があったとき、そいつはじろりとぼくをみた。ぼくが気がつかないふうをよそおって橋を渡ろうとしたら、別のキジネコが姿を現した。そしてどこからともなくまた1匹・・・。
遠くで自転車のチリリンという音がして、ふり返ってみておどろいた。5、6匹のネコがうろついていたのだ。自転車に乗った、着ぶくれしてまるまるした女の人がこっちに向かってやって来るのが見えた。やがて橋のところまで来て自転車をおりたので、ネコたちは女の人のまわりをとり巻いた。ネコたちががまんできないというふうに「ミャーン」とないたので。ぼくも同じように「ミャーン」とないてみせた。
「お前、新顔だな。だれのきょかをえてここにいるんだよ」
でっかい灰色のネコがぼくにドスのある声でいうのだ。
女の人は袋から大きなポリ箱をだし、ふたをあけた。いっせいに近づくネコたちを追いはらうように、女の人女はおこった声で、
「そんなにせかすんじゃないよ。いつもこうなんだからねえ。」
どんどんネコたちがやって来て、ゆうに15匹くらいになっていた。彼らはあらそって、ガツガツと食べはじめた。
「あら、コリンったら、おなかすかないの? けさ、ネズミとって食べたのかい? ブラーヴォ」とか「ミリーはどうしていないの? かぜでも引いたのかしらん」などと、女の人はネコたちに話しかけるのである。
ぼくがやっっとこさポリ箱に近づいて顔をつっ込もうとしたときだ。あのでっかい灰色のネコが、前足でらんぼうにぼくをおしのけ、ハーッとやった。

「チッチョ! お前はどうしていつもこう意地がわるいんだい。さっさと消えてしまいな!」
こぶしをあげてどなる女の人にチッチョという灰色のネコはすごすごとあとずさりした。女の人はぼくをみて言った。
「あら、はじめてみる顔ね。さあ、お食べ」
ぼくはパスタをいきなりほうばった。まずかった。こんなまずいものは生まれて初めて口にした。ふたたび口をつけようとしないぼくを女の人は抱き上げて、まじまじと顔をのぞいていたが、ほっぺたのまっ赤な顔がおやっという表情をした。
「かいネコなんだね。かわいそうにさむさと飢えでふるえているよ。こんなにかわいいネコを寒空に放りだすなんてねえ 。かいネコがこんなもの食べられないのはわかっているよ。これは、スパゲッティとトマトソースだけのにこみなんだもの。でもお前も見はなされてしまったのだから、これからはねずみをとる練習をしなきゃあね」

地面におろすと、もうぼくのことなんか忘れてしまったように、からになった箱をかたずけはじめた。あれほどたくさんいたノラネコたちはみんな姿を消していた。

ダヴィデはトイレに飛びこみ、はでにゲーゲーやりだした。想像はしていたけど、やっぱりネコと人間の食べるものは完全にちがうらしいのだ。やがて彼はまたワインを一気に飲みくだした。電灯を消し、ベッドにもぐってテレビを見ていたけど、5分もたたないあいだに軽いいびきをかきはじめた。

まんぷくしてやっとおちつきをとりもどしたぼくは、部屋のすみっこにうずくまった。冷たいタイルがいごこちわるい。部屋のどこにいってもさむそうだ。ステッラの家でこんなさむい思いをしたことはなかった。ぼくはいつも夫婦のベッドのかけ布団のうえでねていたけど、二人の体温がほんわかこっちにつたわって来て朝まで気持ちよくじゅくすいできたのだ。
こんな所で正月まですごしたら、きっと肺炎になって死んでしまうだろう。ダヴィデだっていっぱいきこんでベッドに入っているのだ。すり切れた皮ジャンを脱いで,その上にタオル地のガウンをきこんでベッド入りなのである。

ぼくはむっくりと起きあがると、そっとベッドにはいあがり、ダヴィデの顔にはなをちかづけた。つけっぱなしのテレビとわずかにさし込む青い光で見るダヴィデの顔はつかれ切っている。まばらなぶしょうひげのやせた顔はそうはくで幼く、悪党のきざしなどまるでない。だのに、人間って起きているときは、どうしてみんな悪人になるんだろう。あわれなダヴィデもネコとおなじように、寝ているときがいちばん幸せでいい子になるんだろう、きっと。

ぼくはおそるおそる彼の足もとにまるくなった。そしていつのまにか布団の中にまぎれ込んでしまったようだ。とっても寒かったからだ。
電話がなっている。瞬間ぼくはゆかにたたき付つけられた。

「この野郎!ベッドにもぐりこんできやがって!」
ダヴィデはおじ気づいたようにさけんでいた。
「枕だと思って抱いてたら!気持ィわるい。しっ、しっ、オレの目のとどかないところにとっとと消えうせろ!」

マーポ6・・・そうなのだ。ふとんの中でぼくは無意識に少しずつ上へ上へとのぼっていったらしいのだ。あたたかい手が僕の体に触れて・・・やがてその手は僕を持ちあげやさしくだいてくれた。小さいときにかあさんのふところに入っていたときのように・・・
ダヴィデは、ほうきをふりましてわめいていた。
あけ放されていたトイレに逃げこんだのが、最大のしっぱいだった。

「朝までトイレのなかでゆっくりしな。ここがてめえの寝室だ!」

再び電話がなりごそごそ話していたが、やがて僕をトイレに押しこめたまま、ダヴィデは出かけてしまったのだった。

僕はミャーミャー泣きさけんでいたけど、そんなことはむだなことだとはわかっていた。トイレの中を走ったり飛びあがったり、コップやビンをひっくり返したり大げさにやっていたけどそれもむだなことだってことも。いきなり下の方から、トントンとらんぼうにつっつく気はいがして太い男の声がどなった。
「いま何時だと思ってんだよっ!」

バスタブの中に、はみがきチューブのふたらしいのがころがっていたので、僕は気分てんかんにそれをころがして遊んでいた。そしてそれにも飽きてしまってバスタブから出て来て、よごれたしき布の上にまるくなって夜を明かしだのだった。

明け方、すっかりいい気分で鼻歌まじりでもどってきたダヴィデは、地震の後のようなトイレを見てぼうぜんとした。いっしょうけんめいいきさつを理解しようとしていたようだったけど、うずくまっている僕を見つけるや、その顔はざんこくきわまりない表情に変わった。

ステッラは、受話器をおき、さっそく旦那にめいれいする。
「マーポを物置から出してかごに入れるのよ。気をつけて。きょうぼうなんだから!」
ぼくはでっかい雨靴の横で小さくうずくまっていたけど、いきなりぱっとドアが開いて、明るい電灯を背に黒いすがたを見た。
「臭え! マーポのやつ、もらしてしまったらしいな」
そうなんだ。ここへ逃げ込んだとき、興奮のあまりひきつけを起こしたらしく、もらしちゃったのだ。おもらしは、死期も間近い老ネコのやることだと聞いていたのに。たった3歳の若さで、もうこのしまつとは!

「マーポ。いい子だから出ておいで」
女房よりも人間的なロメオが、ぼくをけったりなぐったりしないのは分かっている。でも、ダヴィデの家に行きたくないのだ。
ぼくはさしだしたロメオの手をすりぬけると、物おきを飛び出し廊下を走りだした。そのときぐうぜんステッラがサロンを出てきたのである。
ステッラよ、今日はボクと同じくまったくついてないんだね。僕は彼女の足元をくぐるとサロンにふたたびび突進したのだった。ソファーの上にふわりと置いてあった、あの破れたウエディングドレスの上にかけ上がり、テレビからテーブルへ、飾りだなへと・・・瀬戸物の人形といちりんざしが床に落ちてこっぱみじん、水が飛びちる。

「ああ、終局だわ! こいつめ、殺してやる!」
ステッラのぜつぼう的な叫びが追ってくる・・・。

「なんだか臭えなあ、こいつ」
日が沈ずみはじめた灰色のいなか道を、ぽんこつのフィアット・プントを運転しながら、ダヴィデはふきげんそうにひとりごとをいった。
サロンで、夫婦2人がかりでとらえられたぼくはカゴの中におしこめられ、ダヴィデが訪れるまでの2時間を、暖房のまちかくにおらされたから、毛はかんぜんにかわいて、黄金色にふっくらと形をなしていた。でも、においまではとれなかった。
「これでよしと。水びたしではかぜを引くからな。それにネコのぬれざまほど、さまにならないものはないのだから。あんまりおいたしないでダヴィデに可愛がられるのだぞ。そうだ、ねんのため、ちょいとオーデコロンをふっとこうか」

ひと間のダヴィデのアパートは、思いのほか広いが、その混雑ぶりはすごい。そうじなんか何ヶ月もしてないみたいだ。しかもめっぽうさむい。だんぼうは完全に切れているのだ。
ぼくが「ミャーン!」と泣いたので、ダヴィデは、あわてくさって「おまえ、ウンチがしたいのかよ」といいながらこわごわとおりから出してくれた。かごの中でされたらたまったもんではないと思ったにちがいない。ネコは犬とちってそんなだらしない動物ではないことを知らないようだ。彼はすなばこを部屋のかどにおいた。

それからダヴィデは冷蔵庫からサラミソーセージと生ハムのはし切れを取りだし、かたそうなパンにはさんでがつがつと食べ、グイーッとワインをひっかけて、いかにもまずそうに顔をしかめた。そしてベッドにもぐり込もうとしている。ぼくのごはんのことは忘れているのだ。
TMマーポ5〈おなかぺこぺこなんだよー。今日、まる一日何も食べてないんだよーっ〉
ぼくがさいそくがましく泣きつづけているので、ダヴィデはベッドに片ほうのひざをのっけたまま、不思議そうに僕を見た。そしてやっとなっとくできたらしく、袋からかんづめを取りだしてふたをあけたのだった。ムースのかおりが僕の空きっぱらを刺激し、グーと胃袋がなる。
「こいつ、ネコのくせにこんなうまそうなものくいやがって」
彼はかんに鼻を近づけてにクンクンやっていたけど、やがて意をけっしたように、ひきだしからスプーンを取り出すと、まるでパンナコッタでもたべるように、すくって口に入れたのだった。
「ゲーェ!」

ステッラのやつ、しっかとぼくを抱きこむと、思い切り打つ。2度、3度・・・すごいビンタでしびれそう、でも、レースに食いこんだツメはそう簡単にはずせない。ステッラもぼくも夢中だった。
ついにステッラはぼくの前足をつかむと、やっと引きはなしたのだった。ぼくがくるりと向きを変えたとき、彼女の胸を思いっきりひっかいてやった。ひめいをあげてステッラがちょっと力をぬいたとき、ぼくはさっと身をかわして床におりると部屋の外へ走りだした。

どこへ逃げればいいのだろう。冬だからどの窓もしまっていて、ぼくの得意なジャンプで窓から外へ飛びだすことは不可能だ。台所のすみに納屋に通じる小さな穴がある。あそこをくぐりぬけてしまえばあとはかんたん、いやかんたんなはずなのだけど・・・。
でも、そんなところでもぞもぞやっていたら、ステッラにしっぽをつかまえられて引きもどされて、またぶたれるだろう。ステッラはかーっとなったら、なにがなんだかわからなくなるちょう過激派なのだから・・・。

「マーポのやつ、ずいぶん派手なことやってくれたな」
ごちゃごちゃした中に身をよせて、ひと眠りして目がさめたとき、ロメオの声をかすかに聞いた。あのときいったいどこへ逃げこんだのだったけ。ぼくは泣きさけんでいた。このまっくらな場所はどこだろう・・・。ああそうだった。物置の中に逃げこんだのだ。
ここには靴やかさや古い雑誌やぼく専用のカゴ、そのほかなんやかやとつまっている物置なのである。ステッラはこれ以上しっつこくぼくを追っかけようとはしなかった。それどころかカギまで掛けてしまったのだ。

「あんた、あのネコ、どっかにすてて来て!」
仕事からもどってきた夫に、ステッラはヒステリックにさけんでいた。
「すてて来い、とかんたんに言ったってさ。ローザに『マーポは元気?』なんて言われたらどうするんだい?」
・・・しばらくの沈黙のあと。
「いい案があるわ」と、ステッラのかたい声がする。
「ダヴィデにあずかってもらうわ」

え? そんなことしないでくれよ。ダヴィデはステッラの弟で大のネコぎらい。ぼくが姿を見せただけでまっさおになって、しーっ、しーっと追い払おうとする小心なやつ、どんなネコだって彼をすきになるものずきはいないだろうよ。

「ダヴィデ? あたしよ。うちは今、仕事でてんてこまいなの。あんたしばらくマーポをあずかってくれない? そんな長いあいだではないのよ。お正月が終るまで・・・。
そりゃあ、あんたがネコをあまり好きでないってことは知ってるわよ。でも犬とちがって朝夕散歩に連れていったりするめんどうもないしさ、一日一度、缶詰をやってくれればいいの・・・。
いちいちめんどう見なくっても、ネコは自分で砂箱の中に用を足すからだいじょうぶ。砂と箱はちゃんとこっちで準備するから。
え?ベッドにごそごそはいってくるって? そんなことぜったいにないったら!
どう、姉さんのたのみをきいてくれるの? くれないの?・・・そう、いやなのね。けっていてき? わかったわ、あたしもこれで、あんたに来月のおこずかいあげなくてすむので助かったわ。・・・ダメ、物事はすべてギブアンドテイク、姉弟だって同じことよ。ところで仕事はみつかったの?・・・まだ失業中? じゃあ切るわよ、良いクリスマスをむかえなさいね」
ガチャンと受話器をおく音がした。でもすぐにベルがけたたましくなりひびいた。
「予想どうりだわ」
勝ちほこったステッラの声。
TMマーポ4「ダヴィデ? あんたなの?・・・あら、OKしてくれるの? ありがと。じゃあ今日中に引き取りにきてくれる?・・・え? なによそれ、我が家も大変なのしってるでしょ。来年からまた家賃があがるのよ。
あんたのお小遣い毎月250ユーロねんしゅつするだけでも精いっぱいなのに・・・。しようがないわねえ、じゃあ、いくらかうわのせするわ。あまり遅くならないできてね。今夜は夕食は期待しないできて、わるいけど」

はな歌まで口ずさんでいるのは、よっぽどのごきげんらしい。うまくウエディングドレスが仕上がったのだろうね。さっそく僕はしっぽを立てて、さいこうに情感をこめて、おくさまの足もとに体をすりよせたのだった。

「あらまあ、ごめんね。マーポのことすっかりわすれていたのよ。もう、仕上げに夢中だったものだから」
彼女はつんであったネコ用のカンヅメを開けようとして、ふと手をとめると、歌うようにいったんだ。
「あらーッ、昨日のトリのペット(むねのところ)残っていたのをすっかり忘れてたわ。マーポうれしい?」

うれしいともさ。やれやれ、食べものはほしょうされた。ステッラが冷蔵庫をあけてラップをかけた皿を取りだし、ごそごそじゅんびをはじめたときである。ぼくは、すきっぱら抱えて、台所の中を、せかせかあっちに行ったりこっちに行ったりしていたんだけど・・・。

わが目はある一点にくぎ付けになった。サロンのドアが・・・いつもはきっちりとしまっているのに、意外! ひらいているのだ。たった5センチたらずのすきまだけど、たしかにあいているのだ。ステッラはトイレに行くときだって、ガチャンとかならずしめるとっても用心ぶかい女なのに、これはいったい・・・魔がさしたとしかいいようがないではないか。
・・・ちいさいあたまを突っこんでドアをおしあけ、ぼくは中をのぞきこんでいた。一度は入ってみたかったサロン。それがせつなるがんぼうだった。こんな小さな家なのに、マーポ禁断の部屋があるとはぜったいにゆるせない! 気になるのはとうぜんではないか。いや、どんなところか知るけんりがあるのだ。このチャンスをのがせるもんかと、ぼくは足音をしのばせて中へ入って行ったのである・・・。

でも、期待はうらぎられた。ただのありふれた部屋だった。ソファーがあり、ひくいちいさなテーブルがあって、糸やハサミやアイロンなど、商売道具があり、そして白いぬの切れがつみ上げられていた。
大きなテーブルがあり、ここでステッラは仕事をするのだろう。そして小さな機械も。これがミシンというやつにちがいない。部屋のそとからぼくはジクジクジーッと機械の動く音を毎日きいていたのだ。あのかすかな音がいつもぼくのこまくをしげきし、なぞめいた世界をそうぞうさせていたのだった。どれどれとミシンの上に飛びのろうとしたときだ、台所のステッラの声がきこえた。
「マーポ、ご飯のじゅんびができたわよー。いらっしゃーい」

声につられてドアの方にふりかえったときだ。ぎょっとして体中の毛がさかだった。部屋のかどに白い衣類をまとった一人の女が、ちょくりつふどうのかっこうで立ちふさがっていたのだった。女にはクビがなかった。クビなしの白いドレスの女。ぼくがキバをむき出し、ハーッとやったときだ。
「マーポッ、あっ!」
つんざくようなステッラの声といっしょに、ぼくは女にとびかかっていた。不思議なことに首なし女は抵抗もせず、さけび声もあげず、ただゆらゆらと前後左右にゆれただけだった。胸のかざりのところに僕のツメがくいこんだ。女の体はかたくつかみどころがなく、そのため前足は衣装に食いこんだままで布がびりびりっとさけていった。

「マーポッ!」
血相かえて飛び込んできたステッラは、ぼくをとらえ、レースにひっかかったツメをはずそうとしたが、死にものぐるいで身をよじっているんだから、白い布はさけていくばかりなのだ。

ローザ夫人こそ、ぼくを下うけのステッラにおしつけた女なのだ。ミンモの足の指かみつき事件いらい、ぼくにたいする態度はがらりと変わったのだった。

(ミンモとアインシュタインとは合わないのね。こんなネコ、わが家に飼っておけないわ。ミンモが殺されちゃう。さて、どうしよう。捨てるなんて動物あいご協会の顧問として、やるべきことではないし・・・そうだわ、ステッラにやってしまおう、ネコは好きだといってたし、ぜったいに嫌とはいわせないわ。あたしは大切なおとくいさんなんだから)
「とっても可愛い子ネコがいるの。でも、家では飼えないの。ミンモがネコアレルギーになってしまったのよ。欲しいという人もいるんだけど、あなたのようなごく親しい人にもらっていただきたいの。おねがいよ、ステッラ、どう?」
そして、すぐにOKさせたのだ。

「かわいいでしょう? ああ、アインシュタインとおわかれなんて、ほんとうに悲しいわ・・・今までのようにいい子ちゃんでいるのよ。わかった?」だーとさ。
ミラノの「すみれコンパニー」のマネージャー、ローザ夫人は、ステッラのおとくいさまさまだから、「お願いよ」などといわれて、彼女うれしくなってすぐに僕を引きとる気持ちになったのだ。たぶん、100着のウエディング・ドレス注文の夢をみてね。

サロンと寝室とキッチンだけなのに、サロンは年がら年じゅう、ステッラの花嫁衣装せいさく工房になっている。なにしろまっ白でふわふわした布ばっかりだから、ステッラの、その気の使いようったらすごいんだ。
ぼくはもちろん一度だって入れてもらったことはない。彼女が出入りするときに、足のすきまからちらっとたまに見たのと、となりの家のサクランボの木に登って、遠くからのぞけるくらいが精いっぱいだった。じつは旦那のロメオだって、めったに入らせてもらえない「禁域」なのである。

「ステッラ、今夜はインテルとレアル・マドリッドがやるんだ。こればっかりはなにがなんでも見のがせないしな。君の『はかなき愛』は明日の午後に再放送されるんだろう?」
「アパートを買うために、こうして夜も昼も働いているのよ。男の人ってすぐサッカーなんだから・・・しかたないわ。入って来るまえに、ガウンにネコの毛がくっついてないか、よくしらべるのよ」
許可を得て、しんみょうに入って行くロメオ・・・そしてかんしゃく玉が家じゅうにひびく。
「きたない手でふれないでよっ!」

すぐこれなんだ。ロメオはタイヤの修理工でいつもつめはまっくろで、しもんのみぞの中までよごれがへばりついていて、いかにも汚らしいとはいえ、毎日仕事から帰ってくると、ちゃんとシャワーを浴びるきれいずきなんだから、そんなにガミガミいうこともないと思うんだけどね。

さて、クリスマスもまじかにせまった昼前・・・ステッラは忙しさにかまけて、ぼくのごはんのことをすっかり忘れていた。寒い外をうろついて家にもどって来たんだけど、マーポ用のサラの中は、まだからっぽなのである。

マーホ_ 2operacantante台所でステッラが、テーブルにひじをついてコーヒーを飲んでいる。彼女は『椿姫』をききながら、さも気持ち良さそうにたばこをふかしている。ステッラはオペラが大好きなのだ。

「オペラ歌手になって、スカラ座でヴィオレッタを歌うのが、少女時代からの夢だったの」でも、ボルドー色に水玉のジョギング・スーツで・・・これが彼女のしごと着なんだ・・・せっせと花嫁衣装をぬってせいけいを立てなければならないのが現状。夢と現実には、ひきはなされたふたつの星のようにきょりがある・・・とイキなことをいったのはロメオだ。彼だってパイロットになるのがゆめだったんだもの。

「あらっ、かわいいっ。頭のかっこうがマーポみたい!」
これが、初対面でのステッラの第一声だった。
マーポってなにか知っている?
マはマンダリーノ(ミカン)のマ。ポはポンペルモ(グレープフルーツ)のポ。このふたつをかけあわせて生みだされた新種がマーポってわけ。ミカンのようにあますぎもせず、ポンペルモのようにすっぱすぎもせず・・・色は赤味のたりないちょっと栄養失調的オレンジ色、これがマーポなんだ。ここにもらわれて来るまえのぼくのなまえはアインシュタインだったのに。

ずばり、ぼくのあたまはマーポみたいに小さくて、色もぱっとしない。体も小さくて、それが幼いときからのコンプレックスだった。けんかやってもずうたいの大きいのにかみつかれ、ひっかかれ、きずあとはたえなかった。うちべんけいでわるさして、それでいくらか、不満をはっさんさせた気分になるんだけど、やんちゃもドがすぎると、とんでもないことになる。
でもね、『いたずら』って一言でいっても、それは人間たちのかってなはんだんからで、僕らネコの行動にはれっきとした理由があることはわかってもらいたい。ネコは人間のように感情だけでこうどうする動物ではないってことも。

子どもはぼくのさいだいの敵だった。子どもとまともにけんかしても、いつも悪いのはネコのほうなんだもの。まえに住んでいた家の、あのちびっ子ミンモは、すごかった。勉強がきらいでかんしゃくもち。体がよわく、親はあまやかせっぱなしだったから、気にいらないことがあると、手当たりしだいものを投げつける、ぼくのシッポをつかんでふりまわす、ああ、ネコにとって、シッポをつかまれることが、いかにつらいことか皆さんはわかってくれるだろうか?

けっ飛ばされて、かいだんから転げおちたとき、こっちもかんにん袋のおがきれたんだ。ぼくはミンモの足の親ゆびをガブリとかんでやったのさ。ほおの筋肉がまひしてしまうほど思っいきりね。ちょっとやりすぎだったかな?と思ったけどあとのまつり。すっごい血が吹きだして、さあ大変、医者だ救急車だとおおさわぎになったけど、悪いのはぼくのほう。あげくのはて、ぼくはステッラの家においやられるはめになったってわけだ。
マーポ1
北イタリアの小さな町・・・。
冬がとってもはやく訪れてきて、春がおそくやって来る北の町。アルプスが毎日おがめるいなか町のはずれに、ネコのひたいくらいの庭がくっついている平屋・・・それがロメオ、ステッラとぼくのささやかな住み家だ。

旦那のロメオがタイヤの修理工で,ステッラは家で花よめ衣装をぬってるんだけど、彼女、けっこう、うでがたつらしくて、旦那のより収入が多い月があったりするので、いつもいばってるんだ。

「あんた、コーヒーが切れてるわよ! もう店が閉まるからすぐに行ってきてよ、さあ、早く、早くったら!」
なんてことは日常茶飯、かき入れ時などには、気が立つのもわかるけれどね。

「ローザ夫人にお正月あけには必ず納品してよ、春の結婚の支度で、年明けからどっと客がおしよせるんだから、ってしつこくいわれているの。きのうも電話でハッパかけてきたわ。でも、あたし3着もぬえるかしらん?あーあ、これじゃあクリスマスもお正月もないんだわ」

一年後、あたたかなそよ風が吹く春の日。
「みなさーん、こちらは『心の電話相談室』です。ぜひお立ち寄りくださーい」
オレは、マイクをにぎっていた。
ここはJR大阪駅前。大型バスの前にテントが立てられ、多くの人がイスにすわって順番を待っている。
オレは中学受験で希望校に受かり、春休み真っ最中だ。今は心の電話相談室のボランティアとして、四郎といっしょにバスで全国をまわっているのだ。
社長の和田さんは、あのできごと以来、四郎の能力をいかして、なんとか世の中に役立たせたいと考えていた。それをこんな形で実現させたわけだ。
どの土地に行っても、おすな、おすなの大にぎわい。大きな悩みから小さな悩みまで、大人も子どもも、みんな四郎と話をして元気になってくれるのだ。
「よう、四郎! きょうもすごい人やな。あんまりはりきりすぎんなよ」
きゅうけい時間にオレは、四郎の様子を見にバスにのりこんだ。
バスの中はゆったりしたイスがひとつ。その前に四郎がおかれているだけなので、広く感じる。
「だいじょうぶや、幸平くん。新宿東口から出たことなかったけど、いまはこのバスでどこでもいける。この部屋はゆったりして、しかもぼくの大好きなグリーンで統一されているから、疲れなんか感じへんわ」
「そやな、静かな音楽が流れていて気持ちが落ち着くな。オレも四郎といっしょにいれて毎日楽しいで」
オレはイスにすわった。
「毎日が楽しい? それはぼくだけのせいとちがうやろ」
四郎は受話器をカタカタ鳴らした。
「なんやねん、そのいいかたは」
「かくさんでもええって。この間から参加してくれてるボランティアのあの女の子、幸平くんが好きや、いうとった子やろ」
「・・・」
「ほーら、当たりや。顔が真っ赤やで」
「こら、からかったらあかん。たしかにそうや。東京に引っ越してから、ずっと会えんかったから、連絡したんや」
オレは頭をかいた。
四郎7話「ちゃんと彼女には告白したんか?」
「いや、まだちゃんとは・・・」
「そらあかん。はよう、コクらな」
「そんな、急にいうても」
オレはまた頭をかいた。
「いまや、幸平くん、春休みが終わったらまたしばらく会えへんで。幸平くんの思いをちゃんと伝えんと。さあ!」
四郎はオレをせかした。音楽がスローなラブソングに変わった。
「う、うん」
オレはバスをおりて大きく深呼吸した。
そしてオレは彼女のもとにゆっくりと近づいた。
(おわり)