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ピイ、ピイ、ピイ――。

ハッとした。それは間ちがえようもないほどに、聞き知った声だった。黒々とした木々の合間から鳴き声が聞こえるのだ。

「ピイ! いるのか! 帰ってこい」
よびかけるとすんだ声が返ってきた。
確信を持った。あれは、絶対にピイだ。

秋斗(あきと)を追いかけて来たお母さんがかたに手をかける。
「秋斗、残念だけどもうすぐ夜だしムリだよ。家に――」
「お母さん、あの声、ピイだよ! エサ、ほしがってる」
「そっか。秋斗にはわかるのか・・・。けど、一度外に出た鳥はむずかしいな。明日一日は、目立つところにエサを置いてみようか。まだ巣立つには、ちょっと早すぎる日数だと思うから。もどってこれるといいけど」

その日の秋斗は生きた心地がしなかった。父のなぐさめにもうなだれたまま、タオルケットをかぶって真っ暗な部屋の中で、ただピイの無事だけをいのった。
寒くないだろうか。夜行性の肉食の生き物にやられたりしないだろうか。
まんじりともしないまま夜が明けると、秋斗は一目散に庭のウッドデッキにかけ出した。
「ピイ!」
うらの林に向けて、よびかけた時だった。

ピイ、ピイ、ピイ――。

ピイは生き餌に大いに喜び、目の前に落としたハエトリグモを追いかけてつかまえることもできるようになってきた。時折はいっしゅん考えるような仕草も見せるので、あのカメムシ事件もピイの役に立ったのだろう。
一日一日、成長が目に見える。

秋斗(あきと)の絵日記はピイの成長の様子が毎日みっちりと書かれていた。
たよりなかった羽もすっかりりっぱになって、ふんわりとしたフォルムになったピイは愛らしい鳥のヒナそのものだった。ピイは文鳥のように、秋斗の手に乗ったりはしない。運動と食事の訓練のためにケージの外に出す時だけが、秋斗とピイがたがいのぬくもりを感じるしゅん間だった。
きずつけないようにそっとつかむと、ピイはおとなしくしていやがらない。

すり餌(え)をピイ用に作るのはかんたんだ。お湯とすり鉢を用意すればいい。ピイはこのエサを気に入ったようで、そのうがパンパンになるまで食べては、すやすやとねむりについた。
それが数日続けば秋斗(あきと)の手つきも慣れたものだ。

子スズメの真っ黒な瞳(ひとみ)はぱっちりと開くようになり、かぼそかった声も耳にひびくほどに力強くなった。
ピイの赤くハゲていた地はだにはたくさんの黒い管が生え、それがわれると見慣れた茶色い羽根が顔を出す。たよりないヒナは日を追うごとにふわふわとスズメらしくなってきた。

そんなピイに満足しながら、秋斗はなやんでいた。
またたく間に育っていくピイに、まだやってあげていないことがあったのだ。
今日の朝にはと思っていたができなかった。もう先送りにするわけにはいかない。
夏休みの宿題を午前中やったら・・・、今日こそは「アレ」をやらないといけない。

そして、ピイが家に来て3日目の昼。
秋斗(あきと)が友だちとプールに行ったあとのことだった。
急いで家に帰ってピイの様子を観察していた秋斗はお母さんによばれた。

「秋斗、よく聞きなさい」
「なに」
「あ! ねえ。今日の分の宿題やった?」
「・・・まだ」
「じゃあ、言うのやめた。書き取りと計算、今日の分終わったらね」

ピンときた。ピイのことにちがいなかった。最初の山場だと思われたこの数日を乗り切ったのをみて、お母さんが「これなら」とつぶやいたのをけさ聞いていた。

「ピイのことでしょう? ねえ! いいニュース?」
「さあ、悪いニュースかもね。でも、宿題やらなきゃ教えません」
秋斗は大急ぎでその日の夏休みの課題をやりとげた。

そして次の日、申しわけなさそうに帰ってきた父の手には、朝持って行ったのと同じ箱がかかえられていた。
「ダメだ・・・新しい建物作り始めたから、まわりがさわがしくてな。スズメなんて寄りつきもしなかった」
お母さんの大きなため息に、お父さんを出むかえるために二階からかけ下りてきた秋斗(あきと)が内心大喜びしたのはナイショだ。
これであのヒナは、うちの子になる!

「・・・こまったね。本当に保護するなら届出(とどけで)もしないと」
げんかん先でほほに手を当てたまま、こまり果てた様子でお母さんは首をかしげた。
「届出?」
「そう。野鳥を捕獲(ほかく)したり飼ったりは禁止されてるから。スズメだって野鳥よ、もちろん」
「え? そうなのか」
お父さんは、初めて聞いたとばかりに目を見開いた。
「物知らず」
「いや、ふつうあんまり知らないと思うけど。そうか・・・ううん」

こうなったら、もう秋斗(あきと)と父の勝利だった。
しかし、ことは一刻(いっこく)を争った。
父の力を借りて、秋斗はヒナのレスキュー体制を整えることにした。まずは500mlのペットボトルにお湯を入れてタオルでくるんだ。これで湯たんぽがわりになるらしい。夏ではあるけれど、こんな毛も生えていないようなスズメが生きのびるには、温度を上げてやらなければ命取りになるらしかった。

次に、ホームセンターが秋斗の味方になった。野鳥を育てるのに使うすり餌という飼料は、そこに売っているらしい。
「お父さん、早く! 急いで!」
「お前そう言ったってなあ、警察(けいさつ)につかまったら急ぐもなにもないんだぞ」
運転手をせかしながら、秋斗は気が気じゃなかった。小鳥のヒナはほんの数時間の放置で死んでしまうことだってあるという。あのちいさな生き物は、いったいどれくらいひとりでいたのだろう。

ピイが秋斗(あきと)の家に来たのは7月の終わり方のことで、ちょうど夏休みに入った日のことだった。
「お前、文鳥育てたことあっただろう」
「そんな赤むけたヒナ、だんちがいの難易度(なんいど)に決まってるでしょう! それに、私(わたし)そういうことするの反対」
夕方、秋斗が友だちと遊んでから帰宅(きたく)すると、お母さんがうで組みをしてお父さんをはばんでいた。
めずらしく早く帰ってきた秋斗のお父さんは、手元にケーキの箱をかかえている。半分ふたが開けてあるのを不思議に思いながら、すばらしいおやつを期待してそっとのぞきこんだ秋斗は、気味の悪いものを見たかのように飛びのいた。

「ほーら、いた」
秋斗(あきと)がのぞきこんだ葉っぱのうらには、ねらいどおりに虫がいた。
少年の母親じまんの庭は、草がボーボーで格好のエサとり場だ。
紙コップを虫の下にすえてポンと上から葉っぱをはじくと、あんのじょうちいさな虫はころりと真っ白な容器の底に落ちていった。

「おやつ、かくほ!」
紙コップを両手にそっと持ち、お母さんの居るリビングを通る時間をおしんで庭のさくを飛びこえた。駐車場をバタバタと走ってげんかんにまわる。
おなかを減らしたピイが待っているからだ。
げんかんに飛びこむと、もどかしくかかとをすり合わせてクツをぬぎ、秋斗は出まどに置かれた小鳥の保育ケージに声をかけた。

「ピイ、エサだよ」
すると、ちいさな保育ケージでうずくまっていたかたまりは、秋斗の声に飛びつくように首をのばし、大きく口を開いて鳴いた。

――ピイ、ピイ、ピイ!

とびらが開くのを待ちかねて、ちいさなケージから飛び出したピイは、紙コップをかたむけて転がした茶色い虫を一目散(いちもくさん)に食べにかかった。
いつだっておなかを空かせている、秋斗の育てるスズメの子。
それがピイだった。

この日の学校からの帰り道、ぼくは、べにちゃんにネクタイとの取っ組み合いのいきさつを話した。また、今までの嘘をすべて話した。
本当は今日までは、ネクタイを、いやなやつだと思っていたこと、手紙を渡すのが怖く、気持ちがたかぶって取っ組み合いになってしまったこと。

そして、べにちゃんが大好きだということを。
べにちゃんは話せば話ほど、目をまん丸にして驚いていた。
べにちゃんにずっと嘘をつきつづけるなんて、できやしない。そんなのは、ぼくとべにちゃんなんかじゃない!

今のぼくの気持ちのなんと澄んだことか!  ぼくに嘘はない、これだけでぼくの気持ちのなんと誇らしいことか!
その夜、ほくは群青色の窓を開けて眠った。
すっきりとした、春の夜気を感じたかった。
部屋を春でいっぱいにしたかった。

澄みわたる青空のもと一帯に群衆を集め、ぼくは目の前に並んでいる、お釈迦さまとイエスキリストさまと閻魔さまに、べにちゃんがいかにステキか、ネクタイのやつが鼻につくところもあるけれど、どんなにいいやつかということを、得意げに説教している光景だった。

帰ってからぼくは、きのう以上にてひどく叱られた。
でも、ぼくはきのうよりもさらにお説教に耳を傾けることができなかった。
叱られながら、どうしてもぼくは、ネクタイのことを考えずにはいられなかったから。

翌日、学校にいき、イスに座ろうとしたときだった。
ネクタイがぼくのところへやってきた。まだ手にかばんを持ったまま。ネクタイは教室に入るなり、自分の席にはいかず、直接、ぼくのとこにきたようだ。

なにごとかと警戒するぼくに、ネクタイはいった。
「ちょっといいかな、竹春。ふふん」
ネクタイと屋上にいく。二度目だ。朝日がまばゆく、屋上の地面に、フェンスの影が、面白いカタチとなって落ちている。

春のわた雲が青空のなかを流れていた。
「・・・そのぅ、なんだい、竹春、ふふん。・・・いや、きのうはどうも悪かったなぇ。ついカッとしちゃって。ぼくが悪かったよ。手紙はしっかり読んで、小竹さんにはちゃんと返事をしたよ。ふふん、これでいいかな? ぼくを許してくれるかい?」
「・・・・・・」
ああ、なんていうことだ。

「ふふん、きみになぐられて、わかったんだよ。・・・その、えーと、小竹さんがどんなに真剣に、ぼくに好意を寄せてくれているっていうことが。ふんふん・・・、それときみの気持ちも。だからちゃんとしなくちゃいけないと思ったんだ」

まったく、なんてことだろう。
ぼくはぼくの過ちがはっきりとわかった。
カミナリにでも打たれたように、ネクタイの一語一句がぼくの全身をつらぬいた。